いなかうぇ〜ぶ

山陰地方 鳥取県、島根県の中海圏域の話題を中心にいなかの話題や情報をご紹介いたします。
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We shall overcome
https://www.youtube.com/watch?v=nM39QUiAsoM

歌詞と訳は、

We shall overcome,
We shall overcome,
We shall overcome someday;
Oh, deep in my heart,
I do believe,
We shall overcome someday.

我らは打ち勝つ、
我らは打ち勝つ
我らは打ち勝つ、いつの日か
ああ、心の奥深くで
信じてる
いつか我らが打ち勝つということを


We'll walk hand in hand,
We'll walk hand in hand,
We'll walk hand in hand someday;
Oh, deep in my heart,
I do believe,
We shall overcome someday.

我らは手に手を取って歩くんだ
我らは手に手を取って歩くんだ
いつの日か手に手を取って歩くんだ
ああ、心の奥深くで
信じてる
いつか我らが打ち勝つということを


The truth will make us free,
the truth will make us free,
The truth will make us free someday.
Oh, deep in my heart, I do believe,
We shall overcome someday.

真実が我らを自由にしてくれる
真実が我らを自由にしてくれる
我らを自由にしてくれる、いつの日か
ああ、心の奥深くで
信じてる
いつか我らが打ち勝つということを


We are not afraid,
We are not afraid,
We are not afraid today;
Oh, deep in my heart,
I do believe,
We shall overcome someday.

我らは恐れない、
我らは恐れない
今日は我らは恐れない
ああ、心の奥深くで
信じてる
いつか我らが打ち勝つということを


We shall overcome,
We shall overcome,
We shall overcome someday;
Oh, deep in my heart,
I do believe,
We shall overcome someday.

我らは打ち勝つ、
我らは打ち勝つ
我らは打ち勝つ、いつの日か
ああ、心の奥深くで
信じてる
いつか我らが打ち勝つということを

JUGEMテーマ:気になること



- | 20:31 | comments(0) | -


中国共産党の歴史から
伊勢雅臣氏のメルマガ「 国際派日本人養成講座」から再度転載します。


■■ Japan On the Globe(1245)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 中国共産党「大量虐殺」の100年
〜 石平氏著『中国共産党 暗黒の百年史』から

 毛沢東による「革命同志」7万人粛清から始まった「大量虐殺」の歴史
■転送歓迎■ R03.12.05 ■ 40,201 Copies ■ 7,659,542Views■
無料購読申込・取消: http://blog.jog-net.jp/

__________
YouTube「脳科学者 斉藤英治の健康・勝利塾 第一回 はじめに」

★概要:地上でも天上(天国)でも健康な状態で勝利するには。武士道(日本の魂)と聖書の最強組合せの実行で達成できる! 脳科学者・医学博士 斉藤英治(健康・脳力開発著書 累計120万部出版)があなたに贈る応援歌!

動画(約2分間)⇒
 https://www.youtube.com/watch?v=s8qdp7EfKJY
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■1.愛人146人、収賄約1兆4900億円の「腐敗・淫乱文化」

 中国のテニスの女王と呼ばれる彭帥(ホウスイ)さんが、元副首相に性的関係を強要されたとSNSで告発した後、消息不明になった問題が尾を引いています。一時は、IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長とのリモート会談が報じられましたが、WTA(女子テニス協会)は「信頼できる対処になっていない」として、中国でのすべての試合開催を停止すると発表しました。

 しかし、石平氏の『中国共産党 暗黒の百年史』を読むと、こうした事は中国共産党(以下、中共)の内部では日常茶飯事である事が分かります。なにしろ石平さんの著書によると、江蘇省建設庁の庁長を務めた徐其耀(じょ・きよう)という人物が囲った愛人は合計146人と言います。

 石平さんは毛沢東以来の「腐敗・淫乱文化」の現れとしていますが、「腐敗」の方の最高記録は、共産党政治局常務委員の周栄康(しゅう・えいこう)が打ち立てました。2014年に摘発された時に差し押さえられた資産が、総計990億元(当時の為替レートで約1兆4900億円相当)と言います。


■2.自分の野望のためには部下も冤罪に

「毛沢東以来」という点では、もう一つ「大量虐殺」というショッキングな伝統も、石平さんは丹念に記述しています。

 中国共産党は、今からちょうど100年前、1921年にソ連が作ったコミンテルン(国際共産主義組織)の命令・指導のもとで結成されました。その9年後、1930年に毛沢東が党内の権力を独占するために引き起こしたのが、共産党史上に残る「AB団粛正事件」です。

 当時、毛沢東は拠点としていた瑞金で、中央紅軍を統括していました。しかしそれ以外の周辺地域では、別系統の紅軍がいくつか存在しており、すべての紅軍に君臨していたのは、上海にある共産党中央指導部でした。

 毛沢東はいずれ中央指導部に取って代わり、自分こそが「中央」になろうという野望を抱いていました。そこで最初に目をつけたのが、近くの江西地方紅軍でした。毛沢東はさかんに使者を送って、中央紅軍との合併を働きかけます。しかし江西地方紅軍のトップ李文林はまったく受け付けません。毛沢東の腹黒さは、すでに知れ渡っていたからです。

 そこで毛沢東は、1930年春に陰謀を始めました。かつて蒋介石の国民党が共産党のスパイ浸透を防ぐために作った「AB団」という組織を持ち出して、「AB団が江西地方紅軍の幹部層に浸透している」と、上海の党中央に訴えたのです。この時点で、AB団はすでに存在していません。毛沢東は「自白」や「証言」を捏造して「調査報告」をまとめたのです。

 さすがの党中央も、あまりに現実離れした訴えに首をひねりました。しかし無視するわけにもいきませんので、「もしAB団がそれほど江西地方紅軍に浸透しているなら、貴方が率いる中央紅軍にも潜り込んでいるはずだが」と鋭い突っ込みを返しました。


■3.7万人の「革命同志」を粛清して主席に収まった毛沢東

 毛沢東は窮地に追い込まれました。ここで確かな証拠を出せなければ、かえって怪しげな訴えをした自分の立場が危うくなります。しかし、そこは「天才」毛沢東。自分の指揮下の中央紅軍でAB団の「摘発」を行い、それを「証拠」として党中央に突きつけたのです。

 まず腹心の紅軍幹部を唆(そそのか)して、「誰それは実はAB団員だ」と嘘の告発をさせます。その証言に基づき、その人物を逮捕し、厳しく拷問して「AB団の仲間」を全部吐けと強要します。たいていの人間は苦しさに耐えきれず、言われた通りに「自供」します。

 こうした摘発を1カ月間にわたって徹底的に行い、毛沢東は配下の4万人あまりの幹部と兵士から、四百数十名の「AB団員」を摘発しました。うち30人以上は即座に処刑です。その中には、毛沢東のやり方に不満を持っていた部下も多く含まれていました。

 毛沢東はこうして摘発した「AB団幹部」の名簿と、多数の「自供」を報告書にまとめて、上海の党中央に届けたのです。党中央としては、まさか毛沢東が自分の部下まで、でっち上げによって死に追いやったとは想像もできず、その主張通り、毛沢東に江西地方紅軍の粛正を任せます。

 自分の部下さえ平気で殺してしまう毛沢東ですから、江西地方紅軍を同じ手口で粛正するのに、わけはありません。この時の粛清によって殺された軍人、地方の党と行政の幹部は1万人以上に上ったことが、後世の研究によって明らかにされています。

 ここまで事が大きくなると、党中央も座視しておけず、毛沢東主導の粛正は党と紅軍を「AB団による反革命的転覆」から救った壮挙であると持ち上げ、全党全軍に「毛沢東に並べ」と呼びかけました。こうして1931年春から「AB団粛正」の嵐が中国共産党支配下のすべての党・軍組織で吹き荒れ、毛沢東の発明した芋づる式の粛正によって、総計で7万人以上が処刑されました。

 1931年秋には、紅軍の全根拠地を統合した「中華ソヴィエト共和国臨時政府」が成立し、毛沢東が主席に収まりました。毛沢東は自分一人が独裁権力を握るために、無実の7万人の「革命同志」を犠牲にしたのです。


■4.「一村一焼一殺」で「革命根拠地」を広げる

 自分の権力のためには、「革命同志」さえ平気で冤罪を着せて粛清する毛沢東ですから、共産主義の「敵」である地主や資本家階級には、もっと容赦はありません。

 毛沢東支配下の紅軍は農村地帯で「革命根拠地」を広げていったのですが、その際の行動指針が「一村一焼一殺、外加全没収」でした。「一つの村では一人の農村地主を殺し、一軒の家屋を焼き払い、加えて財産を全部没収する」という意味です。

 当時の高級幹部の一人が、自らの体験した「一村一焼一殺」を書き残しています。それによると、紅軍は地元のならず者を集め、朝飯時を狙って、地主の家に乱入し、家族全体を一カ所に監禁してから、金銀、現金、土地の所有証明書の捜索を行います。隠し場所を吐かない時は、激しい拷問をします。

 そして金銀と現金は紅軍が手に入れ、家財道具などはならず者たちにくれてやります。その後、村人全員を広場に集め、土地の所有証明書をすべて燃やして、「土地は全部お前たちにただでやるから、あとはわれわれ紅軍にしっかりと地租(年貢)を納めよ」と宣言します。当然、村人たちは大喜びです。

 その後で、監禁している地主を広場に引きずり出して、村人による裁判を開かせます。そこで村人の何人かに、地主の平素の「罪状」を涙ながらに告訴させます。その上で紅軍の司会者が「このような罪深い地主をどうしたら良いのか」と聞くと、ならず者たちが「殺すのだ! 殺すのだ!」と叫ぶ。そこで紅軍の兵士が、跪(ひざまづ)かせた地主の頭にライフル銃で一発撃ち込みます。

 この日以降、ならず者たちがそのまま村の幹部となり、村を「革命根拠地」として支配します。この方式で、1933年末には、紅軍は3600万人の人口を擁する地域を支配し、「一村一焼一殺」で殺された地主は10万人に上ったといいます。

 1949年に中華人民共和国が成立すると、中共は翌1950年から全国規模の「土地改革」を実行しました。これは「一村一焼一殺」を全国展開することです。これにより全国で6百数十万人の地主が吊り上げられ、200万人ほどが殺されました。

 こうした大量虐殺は常に公開で行われていました。大衆の目の前で「革命の敵」を惨殺することで、恐怖心を植え付け、自分たちに反抗できないように仕向けるのです。


■5.「殺すべき反革命分子は、人口の1千分の1程度」

 全国規模の「一村一焼一殺」が終わるや否や、翌51年の年明けから、毛沢東の命令で「反革命分子鎮圧運動」が始まりました。

__________
全国の農村地帯で殺すべき反革命分子は、人口の1千分の1程度にすべきである。都市部での比率は、人口の1千人の1を超えなければならない。[石、635]
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 初めから虐殺の「ノルマ」を課しているのです。全国の党・軍・公安組織が殺人マシーンと化してフル回転を始めました。たとえば北京市では、「反革命分子」を告発するための動員大会が626回も開かれ、参加人数は延べ330万人に達しました。

 そのうちの一つ、1951年3月24日には1万5千人を集めて人民代表連合裁判大会を開き、反革命分子による破壊活動の「証拠」を提示し、「被害者」に血涙下る「告発」を行わせました。「告発」の模様は全国にラジオ中継します。翌日、公安局は「告発」された399名をすべて逮捕し、彼らが「悪事」を働いた地域に連行します。

 各地域での人民法廷で「罪状」を公表した上で、その場で判決を言い渡し、直ちに処刑します。このような大量処刑が地方でも繰り返され、中共による公式資料では、全国で71万人が銃殺されたとしています。当時の推定人口は5億6千万人ですから、千人のうち1.26人と、「ノルマ」は達成された勘定になります。

 71万人の多くは、地域社会の有力者や素封家たちでした。なぜ彼らが標的にされたのか、石平氏はこう説明しています。

__________
 共産党政権が彼らを殺さなければならなかった主な理由は二つある。一つは、地域社会において名望や威信のある彼らの存在が共産党政権の独裁政治にとって邪魔であること。もう一つは、彼らの持つ財産が共産党政権にとって垂涎(すいぜん)の的だったことだ。[石、723]
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■6.毛沢東の権力奪回のために数千万人が犠牲となった

 中共による「大量虐殺」は休みことなく続きます。わずか4年後、1955年には「粛清反革命分子運動(粛反運動)」と称する運動を開始しました。同じ手法での1年間にわたる「運動」の結果、総計130万人の「反革命分子」が逮捕され、そのうち8万人が処刑されました。

 次いで1957年からは「反右派運動」を始めました。中共政権の諸政策に批判的だった55万人の知識人を「右派分子」として、農村での収容所と強制労働に追いやったのです。処刑こそなかったものの、1980年代にトウ小平が帰還を許した際に生還できたのは半数程度でした。20数万人の知識人が消えたことになります。

 1959年には「大躍進政策」が始まります。毛沢東は念願であった農村の人民公社化を進めました。すべての私有財産が国有化され、収穫も国のものとされました。これでは誰も真面目に働こうとしません。その結果、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲いました。全土での餓死者は、2〜3千万人と推定されています。[JOG(109)]

 1961年初めには、さすがの毛沢東も「大躍進政策」を続けることができなくなり、劉少奇やトウ小平などの実務派に政治運営を譲りました。彼らは市場主義的な政策で、中国経済を回復させます。

 しかし、実権を失いかけた毛沢東は権力奪回をもくろんで「文化大革命」を仕掛けます。青少年たちを焚きつけて「紅衛兵」とし、「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げ、反革命修正主義分子を一掃し、社会主義革命を最後までやり抜こう」という運動を始めさせたのです。

 暴動は中国全土に広まり、教師、市や党の幹部が吊し上げにあいました。そしてついには劉少奇やトウ小平まで紅衛兵によって暴行され、失脚させられたのです。その後、紅衛兵たちは内戦まがいの戦いを始め、ついには手に負えなくなって1500万人が農村に「下放」されました。[JOG(110)]

 石平氏は、文化大革命をこう総括します。

__________
共産党政権史上に残る大事件だった文化大革命は、毛沢東が自分の失った権力を劉少奇一派から奪い返すという、たった一つの目的のために、中国全体が阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化して、数千万人の人々の命が奪われたのです。[石、1,528]
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■7.共産主義からいかに世界を守るか

 このように中共の結党以来の歴史を辿ってみると、大躍進政策や文化大革命、その後の天安門での大虐殺は、決して例外的なケースではなく、中国共産党の持つ本性が現れたものだ、ということが分かります。

 しかし、この「中国共産党」の本性とは、「中国」だからということよりも、すべての国の「共産党」に言えることです。フランスの研究者ステファヌ・クルトワ他による『共産主義黒書』によれば、共産主義の犠牲者は1億人近くに達します。その内訳は:

__________
ソ連:2000万人、中国:6500万人、ヴェトナム:100万人、北朝鮮:200万人、カンボジア:100万人、東欧:100万人、、、
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 第一次、第二次大戦の犠牲者合計の54百万人の2倍近いのです。我が国も例外ではありません。昭和46(1971)年から翌年にかけて、連合赤軍は群馬県榛名山などでの軍事訓練中に、29名の同志のうち12名をリンチで死に追いやりました。また大学紛争時には全国の内ゲバ(左翼陣営内の抗争)で100名以上の学生が殺されたと推定されています。[JOG(941)]

「革命のためには手段を選ばない」と倫理観の欠落した共産主義思想のもとでは毛沢東やスターリンのような冷酷な人物ほど、独裁者の地位に上り詰めやすいのです。そして彼らは独裁者の地位を守るために「大量虐殺」を続けます。「大量虐殺」は、共産主義の本性から生まれているのです。

 そして、今、第二の毛沢東を目指す習近平が、独裁者の地位に君臨しています。この人物から、いかに世界を守るのかが問われているのです。
(文責 伊勢雅臣)


■リンク■

・JOG(941) 日本共産党小史 〜 国民政党なのか、外国工作機関なのか
 日本共産党は世界共産化を狙うコミンテルンによって設立され、その資金と指示で武闘路線を歩んできた。
http://blog.jog-net.jp/201603/article_1.html

・JOG(916) 戦後左翼の正体
「安倍に言いたい。お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と言う人々の正体を探ってみれば、、、
http://blog.jog-net.jp/201509/article_1.html

・JOG(109) 中国の失われた20年(上)
 〜 2千万人餓死への「大躍進」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog109.html

・JOG(110) 中国の失われた20年(下)
 〜 憎悪と破壊の「文化大革命」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog110.html

JUGEMテーマ:気になること





伊勢雅臣氏のメルマガ OG(1237) 絵本『ちよにやちよに』が伝える日本の「根っこ」〜『君が代』はすべての「いのち」へのラブレター
伊勢雅臣氏のメルマガから勝手に転載させていただいています。

是非読んでいただきたい、リンクへも行っていただきたい内容です。



■■ Japan On the Globe(1237)■■ 国際派日本人養成講座 ■■

国柄探訪: 絵本『ちよにやちよに』が伝える日本の「根っこ」
〜『君が代』はすべての「いのち」へのラブレター

「こういう恋文を国歌にする国って、なんて素敵なんだろう。こういう国が私のルーツだなんて、とっても誇らしく思いました」
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__________
「慰安婦に関する歴史的事実」を指摘し、
「河野談話破棄」を主張した
早稲田大学・有馬哲夫教授を
特定団体による言論弾圧から護りましょう。
賛同の署名をお願いします。
もう少しで賛同者7500名到達!
http://nadesiko-action.org/?p=16381
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■1.「この絵本の大事な役割は『君が代』をもとに戻すこと」

『君が代』を描いた絵本『ちよにやちよに』[白駒]が出版されました。幼児にも分かるように描いてありますが、この絵本には、すべての日本人への根源的なメッセージが込められています。

 帯には国文学者で元号「令和」の発案者と言われる中西進・国際日本文化研究センター名誉教授による次の推薦の言葉が掲載されています。

__________
君が代は広く人びとが愛唱して来た
長寿の雅歌(がか)であり
万葉集からの伝統を継ぐ
まさに真珠のごとき愛の歌を
日本人は宝としつづけるのである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 中西教授からお話しを聞いた出版社の木下豊さんによると、「この絵本の大事な役割としては『君が代』をもとに戻すこと」と言われていたそうです。

「もとに戻す」というのは、「1100年以上前に詠まれたラブレターだったこと、1000年以上にわたって私たちの先人たちが愛唱してきた歌、そういう自由でのびのびとした、一般庶民に親しまれた歌である、という状態にもどしてやること」とのことです。[出版記念講演会、59分10秒]


■2.「恋しい人に『いつまでも、長生きしてくださいね』」

『君が代』の「もとの状態」を、絵本の文章を書かれた白駒妃登美さんは、「あとがき」でこう説明しています。

__________
 それは、今から1100年以上前の平安時代前期に編纂された『古今和歌集』にありました。『君が代」の本歌は、「題しらず、よみ人しらず」で、
 わがきみはちよにやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで
  (古今和歌集三円三)
 と、あります。
 もとの歌は、「君が代」ではなく「わが君」です。当時、主に女性が、愛する男性を呼ぶ時に「わが君」と言ったのです(一方、男性が愛する女性を「わが君」と呼ぶこともありました。つまり夫婦や恋人など、親愛の情を持つ相手に向けた呼び名が「わが君」なのですね)。
この歌は、名前はわかりませんが、平安時代に生きた、ある人物が、恋しい人に「いつまでも、長生きしてくださいね」と歌いあげたものだったのです。[白駒、p34]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■3.「1000年以上にわたって私たちの先人たちが愛唱してきた歌」

 この歌は当時、大人気の歌だったようです。

__________
 その註(あか)しに、古今和歌集の成立からおよそ100年が経った1013年ごろ、藤原公任(ふじわらのきんとう)という人が、みんなが楽しく朗詠(ろうえい)できる名歌を編纂した『和漢朗詠集』に、「わが君は」が「君が代は」と手を加えられて、登場します。

君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで

「君」は、恋人や親しい人だけでなく、一族の長老や主人など、目上の人に対し敬意を込めて呼ぶ時にも使われました。そして「代」は、寿命や命のことであり、時代を表す場合にも用いられます。

「千代に八千代に」は、「ずーっと永く、いつまでも」。「さざれ石」は小さい石、「いはほ」(いわお)は「大きな岩」のこと。永い年月の間に石灰岩に雨水が浸透していき、ミネラルが溶けだして周りにある小石とくっつき、大きな岩となる現象を「さざれ石のいはほとなりて」で表しているのでしょう。

自然界のあらゆる所に神さまが宿ると考えてきた私たちの祖先は、石にも神霊が宿り、時間をかけて成長していくものだと信じてきたのですね。

「こけのむす」は、「苔(こけ)が生える」という意味。石が成長して岩となり、その表面に苔が生えるまでというのは、永い永い年月のたとえであり、同時に、愛の深さを表しているのでしょう。[白駒、p34]
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 この歌は、能の謡曲となったり、お座敷で小唄として歌われたり、さらには結婚式や正月などのめでたい席でも歌われるようになりました。こうして「1000年以上にわたって私たちの先人たちが愛唱してきた歌」が、『君が代』の「もとの状態」なのです。

 ラブレターと言っても、「私を愛して」というような自分本位の気持ちではなく、ただただ相手の長寿を願う利他の愛でした。この点も、我が先人たちが愛唱してきた理由でしょう。


■4.政治的喧噪の中で忘れられた『君が代』の「もとの状態」

 明治になって、西洋諸国が国際交流の場で互いの国歌を演奏する、という風習に従うために、国民に愛唱されてきた古歌『君が代』が選ばれ、雅楽の調べに西洋音階の和声(ハーモニー)を巧みに取り入れた曲がつけられ、現在の荘重な『君が代』が完成したのです。

 そして、国歌になると、天皇ご臨席の場で歌われる事も多くなり、『君が代』という表現のままで、「天皇のお治めになる御代」という意味が込められるようになったのです。

 もともと我が国は、初代・神武天皇が民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、「おおみたからをしずむべし(民が安寧に暮らせるように)」との愛と祈りをもって、国をはじめられました。以来、歴代天皇は民の安寧を祈り続けられ、122代明治天皇の御代に、ようやく国歌『君が代』が誕生して、民が天皇に愛と祈りをお返しする歌ができたのです。

 ある名もなき民が愛する人の長寿を願った歌が、広く民衆に愛され、そして天皇と国民が愛と祈りを交わし合う国歌に育ったのは、まさに「千代に八千代に」の時間を経て、「さざれ石」が「苔むす巨岩」に成長する過程でもありました。

 戦後は、左翼から「君が代は天皇制賛美、戦争で使われた軍国主義の歌」などという批判が起こるようになりました。その政治的喧噪の中で、名も無き作者が自分の大切な人に送ったラブレターから始まった、この千年の愛と祈りの歴史が忘れ去られてしまったのです。

 中西進教授が、『君が代』を「もとの状態に戻す」というのは、この政治的喧噪の前の、我が先人たちが、恋人や一族の長や天皇にまで愛情や長寿への祈りを込めて歌い交わしてきた伝統に帰る、ということなのです。


■5.「こういう恋文を、国歌にする国ってなんて素敵なんだろう

 この絵本には、幼児にも感じとれるように、日本画家の吉澤みかさんの手になる、愛と祈りが溢れんばかりに籠もった絵に、次のような白駒さんの文章が添えられています。絵は以下の頁でご覧下さい。
https://www.e-denen.net/cms_kifubon.php

__________
・1つ目のイメージ(母親が赤ちゃんを抱いて、お花畑から暖かい太陽を眺めて)
 いっしょにいる 時も はなれている 時も
 たいせつな あなたには いつも 笑顔で
 そして しあわせで いてほしい…

・3つ目のイメージ(女性がたくさんの星が輝く夜空を仰ぎながら)
 たいせつな あなた
 あなたの いのちが いつまでも いつまでも
 永(なが)く つづきますように
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 また、この絵本には、英語の対訳もつけられています。それがまた日本語の優しい文章と見事にマッチしていて、英語国の子供たちにも愛と祈りが感じとれるでしょう。英訳を担当した山本ミシェールさんは、上記の出版記念講演会でこう語られています。

__________
 私は生まれも育ちも海外で、『君が代』はオリンピックの時ぐらいしか聞いたことがなかったのですね。他の国に比べて短いし、正直、ちょっと地味だし、何を言っているのかが、まず理解できていなかったんですね。『君が代』に対して、実はそんなに思い入れはなかったんです。

 でも、「『君が代』は実は平安時代のラブレターだったんですよ。一人の人が誰かのことを大切に思って歌った気持ちの歌詞なのよ」と言われて、すごく驚くとともに、それを言われた途端に脳裏にやっと意味がスパンと入ってきた。こういう意味を歌っていたんだ。

 そして、こういう恋文を、和歌を、国歌にする国ってなんて素敵なんだろう。こういう国が私のルーツだなんて、とっても誇らしく思いました。[出版記念講演会、15分59秒]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こういう発見を、日本のすべての子供たちにしてもらいたいと思うのです。


■6.「すべてを神のいのちの表れ、神の恵みとみた」

 このチームで『ちよにやちよに』の制作が続けられたのですが、『君が代』の「君」が天皇に限らない事から、その対象はどんどん広がっていきました。「あとがき」で白駒さんはこう書いています。

__________
 この歌を歌うとき、誰を「君(きみ)」と思うのかは、歌う人の自由です。想像の翼は、国境も宗教も、時代さえも、たやすく超えることができます「君」は人でなくてもかまいません。創造力をふくらませれば、虫や動物や草木、山や海や地球、月にも宇宙にさえも対象を広げることができます。[白駒、p36]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これは決して突飛な空想ではありません。日本画家で日本神話に関して数々の著書を遺された出雲井晶(いずもい・あき)さんは、次のように書かれています。

__________
 古代人は、ものをただの物体とは見なかった。そして、すべてを神のいのちの表れ、神の恵みとみた。すべてのものに神の命を見たからこそ、ありとあらゆるものに神の名をつけた。例えば、小さな砂粒にさえ石巣比売神(いわすひめのかみ)、木は久久能智神(くくのちのかみ)、山の神は大山津見神(おおやまつみのかみ)というように・・・[出雲井, p124]
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 日本神話では、太陽は太陽神・天照大神そのものですし、月は月読命(つくよみのみこと)が司っています。先人たちは一日の初めに朝日を拝み、夜は月の美しさを愛でていました。

 そう言えば、『君が代』に出てくる「さざれ石」(小石)、「いはほ」(巨岩)、「苔」もすべて「いのち」であり、我々の「いのち」と同じ「神の分け命」と古代人は感じていたのですね。

 生きとし生けるもの、さらには大地も山も川も海も太陽も月も、すべては、我々と「いのち」がつながった同胞と感じる。それらへの感謝と愛をこめて「君」と呼び、その「いのち」が「千代に八千代に」いつまでも、続くことを祈る。そうした広やかなまごころを我々の先人たちは持っていたのです。

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もしかしたら『君が代』は、先人たちから今を生きる私たちに、そして同じ地球に暮らす、あらゆる命に向けられた、時空を超えたラブレターなのかもしれません。[白駒、p36]
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 そのラブレターを通じて、現代を生きる私たちは千年以上も前から、この愛と祈りを歌い続けてきた先人のまごころにつながり、そのまごころが私たちを育(はぐく)んでくれた事に気がつくのです。


■7.「こういう国が私のルーツだなんて、とっても誇らしく思いました」と気がつく機会をすべての子供たちに

 白駒さんは、出版社を見つけるのに、大変苦労しました。出版界では絵本で『君が代』を扱うのはタブーになっているそうです。また絵本ができても、書店からは炎上するかもしれないと、販売ルートには載せてくれませんでした。

 左翼が『君が代』を子供たちの目から隠そうとするのは、山本ミシェールさんが体験した「こういう恋文を、和歌を、国歌にする国ってなんて素敵なんだろう」と気づく機会を、子供たちから奪っていることです。

 自分の生まれた国を愛し誇りに思い、先人に感謝して、その元気で活き活きと自分の人生を生きていく。それはどこの国の国民でも基本的な権利だと、私は考えています。左翼の『君が代』隠しは、子供たちの基本的人権を奪っているのです。

 この『ちよにやちよに』は多くの子供たちに「自分の生まれた国がどんなに素敵な国だったのか」に気がつくチャンスを与える絵本です。

 この絵本を出版してくれた信州小布施の出版社「文屋(ぶんや)」は白駒さんたちと「ちよにやちよにプロジェクト」を始めました。善意の寄付を集め、この絵本を子供たちに届けるのです。すでに第一次では、福島県の小学校446、公立図書館118、全国の児童養護施設590、小児医療の病院96に、合計1,250冊を送りました。

 第二次は世界各国の駐日外国公館、世界中の日本人学校に合計1,250冊を贈ることで、現在寄付を募集中です。さらに第三次は全国の幼稚園・保育所・小学校などへと、計画は広がりつつあります。

 私たちは『君が代』の国の民として、先祖代々の愛と祈りに護られ、生かされてきました。その愛と祈りのバトンを子供たちに手渡していくのは、私たちの「恩送り」だと思うのです。「こういう国が私のルーツだなんて、とっても誇らしく思いました」と気がつく機会を、日本のすべての子供たちに贈りたいものです。
(文責 伊勢雅臣)

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『ちよにやちよに』の絵本購入、およびプロジェクトへの参加は:
https://www.e-denen.net/cms_kifubon.php
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■リンク■

・JOG(093) 君が代クイズ
 君が代は戦争侵略の歌?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog093.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・出雲井晶『今なぜ日本神話なのか』★★★、原書房、H9
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4562035617/japanontheg01-22/

・白駒妃登美他『ちよにやちよに』★★★★、文屋、R03
https://www.e-denen.net/cms_kifubon.php
またはアマゾンからは
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4907298072/japanontheg01-22/

・「『ちよにやちよに』出版記念講演会(2021年7月4日)記録映像」
https://www.e-denen.net/cms_kifubon.php (最下段)





JUGEMテーマ:日本人





尖閣諸島にはこんな日本の歴史があるんです
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国柄探訪: 尖閣諸島を守ってきた日本人

 国土が尊いのは、それを守ってきた人々の努力の積み重ねがあるから。
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 来春から始まる高校「歴史総合」の各社教科書の日露戦争の部分を読み比べます。「主体的対話的で深い学び」ができるよう、特定の史観の押しつけになっていないか、比較評価します。歴史教育に関心のある方、ご参加ください。

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参加者の中から抽選で20名様に、伊勢雅臣著『学校が教えない 本当の日本史』を贈呈します。
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■1.3.5メートルの波に叩きつけられて10時間

 葛城奈海(かつらぎ・なみ)さんが初めて尖閣諸島を自分の目で見たのは、中国漁船が海上保安庁の巡視船にぶつかってきた事件[JOG(701)]から、1年と少し経った平成23(2011)年11月1日のことでした。新刊『戦うことは「悪」ですか』[葛城]で、こう記しています。

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 午前三時、石垣島の南側にある新川漁港から出航。バラバラと雨が降ってくる。・・・ほどなくすると吉本船長から「時化(しけ)てるから予想よりだいぶ時間かかるよ」と言われる。

 三〇分ほどで外海に出ると、そこからの波は容赦なかった。波高三.五メートル。一波ごとに船体ごと海に叩たたきつけられるので、「木の葉のよう」を通り越して、まるでビニール袋の中に入った小石のようだ。ビニール袋ごと、スナップを利かせて海面に打ち付けられるような感じなのだ。

漁船は人に優しくできていないことを文字通り痛感した。そもそも座席がないから、船室内にディレクターチェアのような椅子を持ち込んでいる。だが、その椅子は船体に固定されていないので、一波ごとに吹っ飛ばされそうになる。そうならないために、どこかにしがみつきたい。

しかし、残念ながら、握る場所もない。仕方なく横にある船窓のサッシを握ろうとするのだが、これまたそんな空間は存在していないので指で挟(はさ) むようにして必死で摘(つ)まむしかない。[葛城、p27]
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 こういう状態が10時間ほども続いて、ようやく尖閣海域に着きました。こんな思いをしながらも、葛城さんは尖閣海域に何度も足を運んでいます。平成26年までの3年ほどの間に15回。途中で引き返さざるをえない事もあり、出航回数は20回にもなると言います。その行動力には敬服します。国を思い、憂える思いの強さからでしょう。


■2.「なんという倒錯した光景だろう」

 葛城さんは、これだけ頻繁に尖閣海域に出かけているので、現地での実体験を具体的に伝えてくれています。平成24(2012)年9月に尖閣諸島が突然、国有化されました。翌年に尖閣海域に行った際には、こんな体験をしました。

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 翌四月に集団漁業活動として一〇隻で訪れたときには、・・・中国公船が八隻で領海に侵入してきた。このころから、中国公船はわれわれとの距離を詰めてくるようになった。公船が接近してくると海保は、「危ないですから、逃げてください」という。

おかしな話だ。尖閣は、日本の領土領海で、領土問題は存在しないのではなかったか。であれば、なぜ、「われわれが守りますから、みなさんは安心して漁をしてください」と言えないのだろう。・・・

 そして、忘れもしない、七月一日未明。四隻で出航し、いつものように夜明け前に南北小島および魚釣島前の海域に達した。・・・ほどなく海保から「中国公船が接近していますので、気を付けてください」と連絡が入った。

 その言葉が終わるか終わらないかというタイミングで、大きな中国公船「海監51」が視界に入り、目の前、魚釣島すれすれのところを悠々と横切っていくではないか。そんな状況であるにもかかわらず、海上保安官たちは、背後の中国公船よりも目前のわれわれ漁船に向かって、「一海里以内に入らないでください」を連呼しているのだ。

続いて、このひと月前に鳴り物入りで就役(しゅうえき)した最新艦「海監5001」も大きな顔で島の前を横切っていく。・・・付近には「海監23」「海監49」もいる。・・・

魚釣島に一番近いのは、中国公船、その外側に海保の巡視船、その外側に海保のゴムボート、そして私たち日本漁船。この状況を第三者が客観的に見たら、魚釣島はどこの国の島に見えるであろうか。日本の海のお巡りさんが日本人の接近を阻止している内側で、中国公船が私たちをあざ笑うかのように何度も行ったり来たりしているのだ。

 なんという倒錯した光景だろう。誰がどう見ても、魚釣島は中国の島にしか見えないはずだ。[葛城、p40]
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■3.尖閣に灯台を自費で建設し、維持してきた日本青年社の義挙

「国土や国民を守る気はあるのだろうか」と疑問を抱かせる政府の対応をカバーしてきたのが、民間の志ある人々です。それらの人々の活動を、葛城さんはこう記しています。

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 昭和五三(一九七八)年四月、百隻を超える中国の武装漁船が尖閣諸島海域に侵入し、一週間にわたる威嚇(いかく)行動を行ったことがあった。このときの政府の対応に危機感を抱いた日本青年社が、同年八月、魚釣島に上陸し灯台を建設した。・・・

 以後、毎年、同隊の隊員が上陸して電池の交換、保守、維持管理を行ってきたという。そうした活動によって、日本の領土や主権が主張できたばかりでなく、周辺を航行する船舶と漁民の安全を守ってきた。

 実際、灯台設置から二年後の昭和五五(一九八〇)年八月には、台湾から神戸に向かう途中だったフィリピン船籍のMAXIMINA STAR号が台風によって遭難したものの、灯台の灯りを発見。灯りを頼りに灯台前に座礁(ざしょう)し、上陸隊の宿舎に避難して、そこに蓄えられていた食料により、乗組員二三名全員が無事救助された。[葛城、p46]
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 こうした実績ある灯台を、平成2(1990)年に海上保安庁は正式な航路標識として認めましたが、外務省の「時期尚早」の声で、「国有灯台」として国が認知し、維持管理を引き継ぐまで、27年を費やしました。

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この間、体を張り、毎回百万〜二百万円もの支出を重ねながら五〇回以上にわたって上陸、灯台建設、補修費と合わせると数億円以上をかけて日本の領土を守る礎(いしずえ)をつくってくれた日本青年社の行動は感謝と称賛に値すると私は思う。が、右翼団体というフィルターをかけたメディアも、この義挙を正当に評価、報道してこなかった。

 毎回、尖閣に行くたびに最初に迎えてくれるのは、魚釣島のこの灯台の灯りだ。明滅するひとつの灯が、「尖閣に帰ってきた」と感じさせてくれる。国の妨害に怯(ひる)むことなく灯台を建設、保守点検し続けてくださった先人たちへの感謝の思いを忘れずにいたい。[葛城、p47]
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■4.かつての尖閣諸島で240余名が定住していた

「先人たちへの感謝」と言えば、尖閣諸島で事業開拓を図った古賀辰四郎の努力も忘れてはなりません。

 今は無人島になってしまった尖閣諸島。その中の最大の島、魚釣島(うおつりじま)には、かつて3千余坪の岩山を切り開いた広大な平地に事業用の建物が並び、240余名、戸数99戸が定住していました。およそ60ヘクタールの耕作地を開墾して、穀物や野菜を植え、食糧の自給体制を築いていました。沖縄県の実業家・古賀辰四郎による開拓事業の成果です。

 明治28(1895)年1月14日、古来より無人無主の島であった尖閣諸島を日本政府が領有宣言をすると、翌明治29年9月、古賀は魚釣島他3島を借り受け、開拓事業に着手しました。

 明治30年3月、古賀は遠洋漁船(帆船)を建造し、これによって出稼ぎ移民35名を送り込みました。翌31年には大阪商船の汽船・須磨丸(1600トン)を借り、自ら移民50名を率いて渡島しました。

 当初、有望な事業と見なされたのは、アホウドリの羽毛採取でした。羽毛布団などの用途に、神戸や横浜の外人商人に好評でした。しかし、採取量を現場の作業者任せにしていたため、乱獲によって、数年で採取量が激減してしまいました。

 古賀は明治32年に単身上京し、動物学者の東京帝国大学教授・箕作佳吉(みつくり・かきち)博士に教えを乞いました。箕作博士は弟子の理学士・宮嶋幹之助を推挙し、宮嶋は現地調査の上、絶滅を防ぐために、採取量の制限を助言しました。

 すでに伊豆大島の鳥島などではアホウドリの羽毛採取で巨万の富を築きながら、激減させてしまった前例などがあり、こうしたやり方は、古賀には目先の利益だけしか考えない愚行としか見えませんでした。宮嶋の助言に従って、6、7年捕獲量を抑えていると、アホウドリの数も復活してきて、安定的な量が採れるようになりました。

 こうして、古賀は明晰な判断力に基づいた先見性で、尖閣諸島の事業開拓に取り組んでいったのです。


■5.アジサシ類の剥製事業、カツオ漁とカツオ節製造

 尖閣諸島開拓の7年目、明治37(1904)年には、カモメの一種であるアジサシ類の剥製事業を始めました。当時、欧米ではその剥製を夫人の帽子とするファッションが流行していました。ただ、剥製の職人を見つけるのが一苦労で、古賀は横浜で南洋帰りの剥製職人16人を雇い入れました。

 明治39年には20余万羽、翌40年にはその2倍以上の取引に成長しました。また剥製製造の際にでる鶏肉から、油は機械油に、肉や骨は肥料にして売り込みました。

 アジサシ類の剥製事業を始めた翌年、明治38年には古賀はカツオ事業を始めます。まずカツオ船3隻を内地において新造し、宮崎県より熟練のカツオ漁師と鰹節製造人10人を雇い入れ、魚釣島にカツオ節製造工場も建てました。

 明治41年に古賀村を訪れた琉球新報主筆・宮田漏渓は、カツオの大群が数十キロの「魚道」をなし、その上では数万、数十万羽の海鳥が乱舞して、海中に突っ込んでは、カツオを追い回している様に驚嘆しています。この「魚道」は、魚釣島からわずか1〜2キロしか離れていなかったために、一日4度もの出漁が可能であり、大漁の際には1万尾近くも水揚げがあった、と言います。

 カツオ漁を始めた時に新造した3隻のカツオ船は、その年に襲った暴風で3隻とも破壊されてしまったので、翌39年には5隻を新造しました。古賀の事業才覚のスケールの大きさには驚かされます。

 採れたカツオからはカツオ節を作ります。カツオ節に熟練した職人を雇ったので、市場からは高い評価を得ました。明治42年の大日本水産会主催の第一回カツオ節即売品評会で、古賀が出品した尖閣諸島産のカツオ節は二等賞銀杯を受賞しています。


■6.労働者の移入と汽船による往来

 こうして古賀の事業は順調に拡大していきましたが、当初は労働者の確保に苦労しました。なにせ、絶海の孤島、無人島に行くというのですから、はじめのうち応募してくるのは、仕事にあふれた一癖も二癖もある者たちで、驚くほどの多額の賃金を要求しました。

 ところが、島での仕事に慣れると、労働は容易で、収入は多いと分かり、出稼ぎから戻った労働者が内地で吹聴したため、志望者が増えていきました。

 明治33年からは、家族同伴も差し支え無し、としました。古賀は一時的な出稼ぎ労働者ではなく、現地に定住する移住者を求めていました。労働者が増えると、賄い婦など婦女子の仕事も増えていました。明治40年には「医師1名」を募集しています。

 また契約期間が過ぎるとせっかく技術を覚えても内地に帰ってしまう年季奉公ではなく、「永久的労働者ノ移植」を目指して、明治41年には宮城県と福島県から7〜11歳の子供たち11名を成人になるまでの契約で、連れてきました。移住者の一人に、山形県師範学校卒業生がいたので、教育の任にあてる予定でした。

 また産物の輸送や人の移動のために、航海の安全も考えて、汽船を購入しています。明治40年には11回も汽船が回航しています。ほとんど月一回の頻度で、往来していました。


■7.「ますらおの かなしきいのち つみかさね」

 明治42年、古賀は尖閣諸島の開拓功績が認められ、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授与されました。この章は教育、衛生、産業開拓などに功績のあった人を顕彰するもので、沖縄県では二人目の受賞でした。

 古賀の友人で沖縄県出身の衆議院議員・御得久朝惟((ごえく・ちょうい)は、受賞を喜び、「尖閣経営の初めは、多くの人が危ぶみ、中には陰で笑いものにする者もいた」と沖縄毎日新聞に寄稿しています。それほどの難事業を、古賀は果断に取り組んできたのでした。

 古賀村は最盛期には、240余名、戸数99戸が住んでいました。何枚かの写真が残っていますが、その集落の中心には10メートルほどの高いポールに、幅1.5メートルほどの大きな日の丸が掲げられています。遠くを通る船からもよく見えたでしょう。古賀の積極果断な尖閣開拓の姿勢には、自分は国境の島を開拓しているのだ、という使命感があった、と感じられるのです。

 しかし、大正に入ると、突然、古賀村は消失します。これは巨大台風により、住居や生産施設などが破壊されたからではないか、と推察されています[尖閣、p44]。 こうして、15年ほどの繁栄の時期を終えて、尖閣諸島は再び、無人の島に戻ります。

 今日、無人のちっぽけな島など、中国と戦争するくらいなら、あげてしまっても良い、などという人もいます。

 しかし、筆者は思うのです。国土の尊さは経済とはまた別の次元の価値だと。そして、その尊さは、古来から国民がその国土を守り発展させようとした努力の積み重ねから来る、と。古賀辰四郎の尖閣開拓の苦闘、日本青年社の人々の灯台設置と維持、漁船衝突事件のビデオを職を賭して公開した一色正春さん[JOG(701)]、葛城奈海さんたちの尖閣防衛の訴え、、、

「ますらおの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」という歌人・三井甲之(こうし)の短歌が思い起こされます。
(文責 伊勢雅臣)

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