いなかうぇ〜ぶ

山陰地方 鳥取県、島根県の中海圏域の話題を中心にいなかの話題や情報をご紹介いたします。
イベントや話題をお持ちでしたらご紹介下さい。お待ちしています。
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太陽光発電
最近、「太陽光発電に興味ありませんか」っていう電話が結構かかってきますよね。

近所にも、ソーラーパネルを設置している家庭が多くなってきています。

我が家の屋根など、長くて、方角的にも日当たりがいいので向いてはいるんですが、

いまひとつ踏み切れないのは”金”

電話帖から軒並みかかってきて、営業の話を聞くだけで発注してしまっては後で公開することになるかも知れませんよ。


だから、やはり、見積もりを取ってみることが必要です。

例えば、パネルにしてもメーカーによって効率が違ったりします。

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そのほか | 15:36 | - | -


日本人はすごい
渡部亮次郎氏のメルマガ「頂門の一針」 2539号より転載します。
一読願います。

かなり長いですが、今を生きる日本人にとても重要なことが書いてあります。

━━━━━━━━━
後に續く若き友らへ
━━━━━━━━━


    山本 卓眞

[日本の獨立を守った先人の足跡}

學生諸君が、休日にもかかはらず、全國から集まって研修をされること
に敬意を表します。

最初に、我が國の先人の足跡についてお話しいたします。

日本は聖徳太子の時代(6世紀末から7世紀)、隋に遣隋使を派遣し、
皇帝煬帝に對して「日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す」
との國書を差し出します。毅然として對等の國交をしてゐたのです。

また「四百餘州を擧る十萬餘騎の敵國難ここに見る弘安四年夏の頃」と
いう歌がありますね、「元寇」です。13世紀當時、アジア大陸かららヨ
ーロッパまで、ほとんどの國がモンゴルに席卷されてゐた時代に、日本
だけが敢然と戰って元軍(モンゴル軍)を撃ち拂ひました。

もちろん「元軍の船が夜停泊してゐた玄界灘に臺風が來た、嵐が吹いた」
といはれていますから、神風も吹いたのでせう。しかし敢然と朝野を擧
げて戰ったのです。例へば、出羽三山に、時の上皇は元軍撃滅の祈りを
捧げました。その記念の額は今でも殘ってゐます。

朝野を擧げて死に物狂ひで戰ったから、日本だけは他國の侵掠を免れた
のです。次に17世紀の戰國時代の話です。當時はポルトガルやスペイン
を先頭に、ヨーロッパ諸國がアジアに攻め込んできた時代です。

マカオとか厦門(アモイ)、香港、シンガポール、マレーシア、インド
ネシア等散々やられてしまひました。

さういふ中、日本にも宣教師がやってきました。その宣教師が本國に書
き送った文章の中に、次のやうにありました。「日本は平和のために、
絶えず戰爭の練習をしてゐて、好戰的である。この國には攻め込まない
はうがいい」と。

「好戰的」だといふ言ひ方は正確ではなかったと思ひますが、しかし外
の國が武力を疎んじてゐた時に日本は、文武兩道だったのです。武士が
世の中の中核にゐたためといへますが、それが日本の獨立を支え統けた
のです。

さらに時代は進んで19世紀の幕末になります。生麥事件の後、イギリス
軍が鹿兒島を攻撃しましたが、薩摩藩が降伏しないで戰ったのです。結
果としては負けましたが、イギリス軍も薩摩を占領できず撤退しました。

その後下關で馬關戰爭が起こり、長州藩は四ヶ國と戰ひ、戰鬪には負け
たのですが、戰ふ姿勢を示したため、幕末も日本の獨立が守られたので
す。

そしてついに明治維新に入っていきます。日本の武士たちは、大政奉還、
武士階級の消滅、富國強兵の策をとり、近代國家建設を成し遂げました。
これが日本の近代化の車大な要素です。

その時にひとつ知っておいていただきたいことがあります。頼山陽や坂
本能馬、高杉晋作、眞木和泉守など、志士と呼ぱれる人たちは、西方の
人が多くゐました。特に九州の人ですね。上京する時には、みんな兵庫
の湊川神社にお參りしてゐました。

そこに「嗚呼忠臣楠子之墓」といふのがあります。楠木正成を祀った墓
です。九州から出てきた志士たちは湊川神社に詣でてゐるのです。

では、なぜ志士たちは漆川神社を詣でたのでせうか。南北朝時代のこと
を扱った國民文學に『大平記』があります。

この中に楠木正成が出てくるのですが、「智仁勇の三徳を兼て、死を善
道に守るは、古より今に至るまで、この正成程の者はなかりつるに…」
とあります。最高の褒め言葉ですね。かうして日本の國民に、楠木正成
の忠勇が傳はり續けました。

この『太平記』は南朝寄りの作品ですが、反對の北朝側の足利尊氏寄り
の作品に『梅松論』があります。楠正成にとっては、いわゆる敵方です
ね。その『梅松論』で、楠木正成のことを「誠に賢才武略の勇士とはこ
の樣な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と書いて
ゐます。敵方であっても、楠木正成はこのやうに評價されてゐます。幕
末の志士たちはかうした文學を讀み、みんな湊川神社を訪れたのです。

楠木正成の言葉に「七生報國」といふのがあります。七度生まれて國に
報いる、といふことです。正成が湊川で戰死したのは兼武三年(1336年)
ですが、500年以上を經て、明治の志士たちが楠木正成の後を繼いでいか
うと起ちあがったのです。かうした忠君愛國、國や公のために盡くすと
いふ心が日本を形成する中心にあるといふ心が非常に大きなことなので
す。

[三つの世界史的偉業]

我が國の先輩たちは、近現代において三つの世界的偉業を成し遂げてゐ
ます。

第一は日清・日露戰爭です。日清戰爭は大したことがないやうに思はれ
てゐますが、それは今日から見た考へ方です。當時清國は、「眠れる獅
子」と言はれ、歐米も恐れたほどです。もちろん日本人も恐れてゐまし
た。

ところが日清戰爭の15年前ほどに、福島安正といふ情報將校が、朝鮮や
中國本土に渡って、事情を調べました。そして「清は眠れる獅子ではな
い、眠れる豚だ」といふ報告を上げてゐるのです。

それを讀んだ伊藤博文などは、「眠れる獅子かと心配してゐたが、それ
ならぱ戰ふか」といふことで日清戰爭に踏み切ったのです。

日清戰爭の數年前に、中國はドイツから「鎖遠」「定遠」といふ軍艦を
買ひました。そして長崎に來て、デモンストレーションを行ひ、暴れま
はつたといふ有名な事件があります。

中國に武器を持たせるとろくなことがありません。そのことは歴史的に
證明されてゐるのです。だから中國の鄰に位置する日本は、抑止力を持
たなけれぱいけないといふのが、歴史的教へなのです。

ではなぜ、日清戰爭をせざるを得なかったのか。それは清の背後にロシ
アの脅威があったからです。もし日本が日清・日露戰爭を戰はなけれぱ、
韓國は今頃、みんなロシア語を話してゐたことでせう。

日本は日清戰爭に勝った上に、さらに日露戰爭にまで勝った。まさに大
國との戰ひに勝ったのです。

この時の日本將兵の規律は世界に知れ渡りました。特に北清事件の際、
北京に駐留してゐる外國軍の中で、日本軍は際立って規律嚴正だったと
いふことが、北京にゐた英國の公使のレポートに記されてゐます。

英國公使は、本國に對して「手を握るのは日本だ」といふレポートを送
ったのですが、それが後の日英同盟の基礎になったと言はれてゐます。

また日露戰爭の勝利で、世界に衝撃が走りました。インドやトルコ、フィ
ンランドなど世界の諸民族が覺醒したのです。

平成3年(1997年)にOECDから頼まれて、私はフィンランドの國際
會議に出席しました。用事が終はった後、フィンランドのリッポネン首
柑を訪ねました。

私は首相に「日本人はフィンランド人に對して親近感を持ってゐます」
と言ひました。と言ふのは、フィンランドはフン族といって、アジアの
血が入ってゐる民族なのです。

當然、フィンランド側もそのことを知ってゐますから、説明しなくても
わかりました。あとは會社の話やフィンランドにおける活動の話をして、
「これからもよろしく」と傳へました。

それに對してフィンランドの首相は、「われわれフィンランド人は對馬
以來、日本に對して特別の感情を持ってゐる」と答へました。「對馬」
とは日露戰爭の日本海海戰のことです。

日本が日本海海戰を果敢に戰ひ、ロシアに勝利した。それによってフィ
ンランドも發奮し、ついにロシアからの獨立を達成したといふのがリッ
ポネン首相の言葉でした。

アメリカのフロリダ大學のウィリアム・ウッドラフといふ歴史學の教授
が、平成2年(1990年)に『現代を讀む世界近代史』(阪急コミ‐ュニ
ヶーションズ)といふ本で日露戰爭を論評してゐます。

そこを讀みますと、「近代史において初めてアジア人がヨーロッパの強
國を、陸と海で同時に打ち破った。ヨーロッパ全能の神話が打ち彼られ、
インド、ペルシャ、トルコのアジア民族主義にとてつもない刺戟を與え
た。歴史の第一線へのアジアの囘歸が始まった」と書いてあります。

我々の先輩たちが日露戰爭を戰ったことでアジアの人たちを覺醒させ、
彼らを奮ひ立たせたことが、このやうな形でも評價されてゐます。


[人類の基本道養の確立]

先輩方が成し遂げた世界的偉業の二つ目は、大東亞戰爭です。これは敗
れました。敗れましたが、その結果どうなったでせうか。世界では、人
種差別が撤廢されるやうになりました。

もちろん名殘はありますが、建前としては人種差別が認められなくなり
ました。さらに植民地もほとんど無くなりました。つまり我々の先輩た
ちが大東亞戰爭を戰ったことで、人類の基本道義が確立されたのです。
これを偉業と呼ばずにをれるでせうか。

イギリスのアーノル卜・トインビーといふ世界的な歴史家は、『オブザー
バー』といふ雜誌の昭和31年(956年)10月28日號に次のやうに書いてゐ
ます。

「第二次大戰において、日本人は日本のためといふよりも、むしろ戰爭
によって利益を得た國々のために、偉大なる歴史を殘したと言はねぱな
らない。

その國々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亞共榮圈に合まれ
てゐた國々である。日本人が歴史に殘した業績の意義は、西洋人以外の
人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去
200年の間に考へられてゐたやうな、不敗の半神でないことを明らかに示
した點にある」。

トインビーはここに「短命な理想であった大東亞共榮圈」だと書いてゐ
ます。ところがその後、日本を先頭にアジアは經濟發展したのです。


三つ目の倬業は、經濟發展です。平成2年(1990年)3月、沖縄にゐた
アメリカ海兵隊司令官スタック・ポールは、アメリカの『ワシントン・
ポスト紙』のインタビューに答へ、「日本は銃によらない大東亞共榮圈
を作った」と答へました。

.彼は「在日米軍は日本の軍事力増強を抑制するための「ビンのふた」だ」
とずけずけといふ男ですが、私も率直にさう思ひます。そのスタック・
ホール中將が言ふやうに、日本は、經濟發展でも多大な業績を上げてゐ
ます。戰後、日本が急成長し、アジアの發展を觸發してきたのです。

平成17年(2005年)の8月の『タイム誌』(アジア版)に掲載された特
集「モダンアジアの誕生」の卷頭コラムに、シンガポールのリー・クア
ンユー公共政策大學院院長のキショール・マブバニが、次のやうに書い
てゐます。

「第二次大戰における日本の振る舞ひはひどいものだ。しかし、もし日
本が20世紀前半に成功しなかったら、アジアの發展はずっと遲れていた
だらう。日本がアジアの勃興を促したのだ。

日本の過酷な植民地支配を受けた韓國でさへ、日本といふお手本がなかっ
たらあれほど早く飛び立てなかっただらう。アジアは日本に感謝状を贈
らなければならない。

殘念なのは、アジアと西洋の間に引き裂かれた日本が、自らのアイデン
ティティに曖昧でゐる間は、さうした感謝の言葉を贈るわけにはいかな
いといふことだ。

中國人でさへ日本に感謝すベきだ。第二次大戰中の暴虐行爲を再三否定
する日本政府の態度は、中國との關係を複雜化させてゐる。

しかし、トウ小平が計畫經濟から自由主義耗濟ヘと移行する運命的な決
斷をしなければ、今の中國はなかった。トウ小平は、臺灣、香港、シン
ガポールで發展する華僑の姿を見て、思ひ切った決斷をするに至ったの
だが、この三匹の虎と、四匹目の虎である韓國は、日本に刺戟を受けた
のだ。日本がアジア太平洋に投げ込んだ石は波紋となり、やがて中國の
利益にもなったのだ」。

多少歴史觀の違ひはありますが、アジアでも、大東亞戰爭後、日本がア
ジアを覺醒し發展させた原動力となったといふ見方があるのです。


トウ小平は、昭和53年(1978年)10月に日本に來ました。中國に戻った
後の12月、自由主義經濟に移るといふ決斷をしました。それから8年遲
れてソ聯は、べレストロイカ政策に踏み切りました。

ロシアも、中國が發展し始めたのを見て、「これは大變だ」といふこと
で昭和61年(1986年)に動き始め、平成3年(1991年)にソ聯が崩壞し
ます。かうして共産主義の計畫經濟は、完全に敗北しました。

日本が經濟發展し、アジア諸國を觸發して、自由經濟がいいといふこと
を證明し、世界を動かしたのです。日清・日露戰爭、大東亞戰爭―いづ
れも日本がほとんど單獨で行った大きな歴史的偉業であると言へます。


[日本の精神基盤]

ではなぜこのやうな偉業を成し遂げることができたのでせう。それは日
本が道義を通したためです。自分だけの利益を求めたのではなく、アジ
アの繁榮、彼らの獨立を考へ、さらには經濟を發展させました。

日本の精神的根底にあるのは、日本書紀に出て來る「八紘一宇」の精神
です。「八紘を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと」といふ意味です。
聖徳太子の十七條憲法で言ふところの「和を以て貴しとなす」ですね。
平和を求める心が日本人の精神の根本にあるのです。

萬葉集の中に、「海行かぱ水漬くかぱね 山行かば草むすかぱね 大君の
邊にこそ死なめ かへりみはせじ」といふ一節があります。忠君愛國と言
ひますか、己のために生きるのではなくて、全體のために生きるといふ
生き方が最高の生き方だ、といふことが萬葉の昔から言はれてきました。
このことを忘れるわけにはいきません。

それが先ほど述べました楠木正成の南北朝時代に始まって、戰國時代、
江戸時代を通して、文武兩道を重んじる武士道に繋がりました。武士は
單なる武力だけでなく、政治を預かってゐました。

これに對し韓國の李朝は文だけ尊重し、武を敬遠しました。その結果、
亡國となったのです。清國も同じです。ところが今の共産中國は、武だ
けを増強してゐます。李朝や清國の歴史を見ても、文武兩道は非常に大
事なことなのです。

では今の日本はどうでせうか。武を嫌ひ、「平和、平和」と叫び、「憲
法九條を殘せばいい」と言ってゐます。冗談ぢゃないと私は言ひたい。

尖閣諸島を見て、北朝鮮を見て、竹島を見て、北方領土を見れぱ、日本
の安全保障をきちんと考へ、防衞費を増やさないといけないことは.一目
瞭然です。このあたりのことは、これから勉強してもらって、あなた方
若い人たちに後を繼いでもらひたいと思ってゐます。


[アジアの獨立を願って]

大正八年(1919年)、日本は第一次大戰後のバリ講和會議で、人種差別
撤廢を主張しました。實はこの時、過半數の國は贊成したのです。しか
し、「全會一致でないと認められない」と言って反對したのはアメリカ
のウィルソン大統領だったのです。

アメリカの理念とか道義とかを否定するつもりはありませんが、アメリ
カの主張する理想の裏には必ず利益が絡んでゐたり、自分の主張だけが
あったりするものです。しかし日本はさうではありませんでした。

そしてもう一つ、日本はアジアの獨立をも願ひました。岡倉天心や頭山
滿、宮崎滔天、河口慧海などが中心人物です。特に河口慧海は、日露戰
爭が終はった年にネパールに僭入したのですが、その時、ネパールの首
相宛に英文の手紙を書いてゐます。

そこには「我々日本人は、アジアの人々が共に手を携へ協力し合って發
展する姿を見たいのです」と書かれてゐました。まさに大東亞共榮圈で
すね。共榮の考へです。そして彼はネパールの發展のために、教育や政
治に對する提案をしてゐます。

河口慧海はアジアの發展に盡くした代表人物の一人ですが、明治時代、
大正時代にわたって、我々の先輩たちは、アジアに對して深い愛情をもっ
てきました。


[自主獨立の氣概]

さて、歴史上に見る、日本の素晴らしさをお話してきましたが、では今
の日本はどうでせうか。一番の問題は自主獨立の氣概がないことだと思っ
てゐます。

私は借行杜という舊陸軍將校と自衞隊の元幹部目衞官の團體の會長をし
てゐます。この問まで理事長を六年間務めてゐました。私が接してきた
自衞官たちはとても立派です。後事を託すに足る存在です。一朝事ある
時は命を懸けて戰ふことを決意してゐることを感じます。

しかし殘念なのは、今の自衞隊が全く米軍依存であることです。長年米
軍と共にやってきたので、依存體質があるのは仕方がないことではある
のですが…。

これからどんどん米國の力が下かってきます。一方、色んな新興國が力
をつけてくる時代になります。なかんづく中國ですね。そのやうな中に
あって、日本はそのままでいいのでせうか。さうはいきません。

中國、ロシア、韓國、北朝鮮の動きをみてゐると、十年後、二十午後は
恐るべき状況がやってきます。今から手を打たなけれぱいけないのです。

その基本は、自主獨立の氣概を持つことです。そのためにも、日本人か
ら自主獨立の氣概を奪った憲法を直さないといけません。憲法を改正す
るために、絶えず聲を上げ續ける必要があると思ひます。

[道義國家]

日本はこれからどのやうに進めばいいのでせうか。基本は道義國家とな
ることだと思ひます。しかし、文武兩道で、道義の裏には力がないとい
けません。つまり「抑止力」と「同盟」が必要なのです。

アメリカだけでなく、東南アジアやインドといった國々としっかりと同
盟を結ぶ。これらの國々とはシーレーン同盟を結ぶのがいいと思ひます。
これは同時に經濟同盟でもありうるのです。

シーレーン同盟強化のためにも、インドと東南アジアの國々には強くなっ
てもらはないといけません。經濟力もつけてもらはないといけません。
ですから、經濟協力と同時に、集團的目衞權を行使できるやうにするこ
とが必要です。やっぱり經濟力といふのは最後にものを言ひます。

若い皆さんには、ぜひ日本の經濟を成長させていただきたいと思ってゐ
ます。


[生きて祖國の再建に力を盡くせ]

最後に、私が人生の中で心に殘ってゐる訓示、教訓についてお話しします。

私は、昭和20年に陸軍航空士官學校を卒業し、その後4月に滿洲に渡り
ました。まだ基本の操縱しか習ってゐませんでしたから、滿洲に行って
空中射撃や空中戰の練習をしました。

さうしてゐるうちに8月6日に廣島に原爆が落とされました。部隊長は
我々を集め、引き締まった顏で「廣島に新型爆彈が落とされた、廣島は
ひどいことになってゐる。お前たちも覺悟をしろ」と言ひました。異樣
な緊迫感を持った訓示を受けた記憶があります。

そして九日。ソ聯との國境近くの北滿の練習場にソ聯が爆彈を落としま
した。直ちに集められ、部隊長から「只今から、奉天の南飛行場に移動
し、飛行機を改造する。練習用戰鬪機の機關銃では戰車攻撃ができない。
爆彈を積んでソ聯の戰車を攻撃しろ。そのために飛行機を持って、全員
奉天に移動せよ」といふことを言はれました。途中三回着陸して、奉天
にたどり着きました。

改造が終はり、部隊長のゐる北飛行場にみんなで合流しようと準備して
ゐたときに、玉音放送がありました。玉音放送はよく聞き取れなかった
のですが、その日の午後、部隊長から招集されて「日本は負けた」と言
はれました。そして、翌々日の朝早く「飛行學生は内地の陸軍航空士官
學校に戻れ。これは命令だ」と言はれました。そのあと訓示に移りまし
た。

「最後までお前たちには死ぬことを教へてきた。しかしこれからは死んで
はならん。地を這ひ、草を食(は)み、犬になっても、乞食になっても
生き拔け。生きて祖國の再建に力を盡くせ」。

これが部隊長の別れの訓示でした。そのあと部隊長が言ふには、「お前
たちには今まで衣食住はすべて、國家が支給してゐた。しかしこれから
お前たちは全部自分で賄はなけれぱならん。ところが生活の術を全く心
得てゐない」。

私なんか12歳くらいのころから軍の學校に入ってゐるので、生活の術は
全く知りません。飯盒炊爨くらいはできますが、しかし米をどう育てる
のかはわかりません。部隊長は「それを思ふと哀れで涙がでる」と言っ
たのです。

我々は貨物列車に詰め込まれて、朝鮮經由で日本に戻りました。間髮で
ソ聯が入ってくる前に朝鮮にれました。しかし部隊長は翌日、ソ聯に抑
留されて、シベリアに三年半くらい抑留され、昭和24年に日本に歸って
きました。

部隊長が「地を這ひ、草を食み」と言ったのは何だったのか。「すごい
こと言ふな」とは思ったのですが、その意味はよくわかりませんでした。

しかし部隊長は、「戰後、日本にアメリカ軍が入ってきて、こいつらは
捕虜になるだらう。食べるものもなく、着るものもない。だけど必死に
堪えて生き延びろ。生きて祖國の再建に力を盡くせ」と言ひたかったの
ではないかと思った時、自分たちのことをそこまで考へてくれてゐたこ
とに氣附いたのです。

指揮官たるもの、部隊長たるもの、一朝事あるときにまづ部下のことを
考へるのです。もちろん天下國家のことが先です。天下國家のために何
が必要かと考へた時、部隊長は、部下を早く日本に歸して國の建に役立
てようと考へたのです。

幸いにして無事に歸った私は、廣島で原爆の燒け野原の跡を見て、東京
の燒け野原を見て、やむなく九州の親父の實家に戻りました。家は百姓
だったのですが、土地がなかったので、私は東京大學第二工學部に入學
しました。

部隊長の離別の訓示-―これは終生忘れられないものです-―「祖國の再
建はできたのか」と今なほ問び統けてゐます。確かに日本は經濟發展で
きた。しかし中身はどうかと考へると、いつも鞭打たれる思ひがするの
です。

私の心に殘るもう一つの言葉は、尾高朝雄といふ法哲學の教授の言葉で
す。

東京大學法學部には妙な教授がいっぱいゐました。手のひらを返したや
うに、「アメリカは偉い」と言ひ始めたのです。そのやうな中で、尾高
教授からは「眞理の探求は生易しいことではない。簡單に結論淨し出す
な。諸君は色々な説を聞くだらうが、ちょっと話を問いただけで簡單に
のめりこむな。廣く學び深く考えよ」との教へをいただきました。

クラスメートは40人ほどでしたが、10年ほど前にみんなで集まったとき
に、あの言葉を覺えてゐるかと問いたら、みんなしっかり覺えてゐまし
た。

さらに、輕擧妄動して赤旗を振った奴は一人もゐなかったのです。當時
は、赤旗を振っての學生運動が盛んだったのですが、我々のクラスから
は、そんな學生は一人も出なかったのです。

終生心に殘る、訓示、教訓といふのはその時々にあるものなのです。

まだまだ、あなた方の人生はこれからです。日本のために大いに働ひて
もらひたいものです。殘念ながら日本はまだまだ力足らずで、この體た
らくです。我々も生ある限り努力は統けるつもりですが、ぜひ皆さんに
は後に續いてもらひたいと思ひます。


(著者は大正14年熊本縣生まれ。昭和20年陸軍航空士官學校卒。24年東
京大學第二工學部卒業後、富士通信機製造株式會社(現富士通株式會社)
に入社。

會社では56年代表取締役社長、平成2年同會長、9年同名譽會長、16年
顧問。また、同臺經濟懇話會會長、借行社會長、日本戰略研究フォーラ
ム顧問、特攻隊戰沒者慰靈平和祈念協會會長、國策研究會會長、日本會
議副會長など國事にも奔走された。勳一等瑞寶章受賞。著書に『志を高
く』(本經濟新聞社)『夢を形に』(東洋經濟新報社)など。)


付記

追悼山本卓眞先生

本會の副會長として長くご指導いただきました富士通株式會社顧問の山
本卓眞先生が、1月17日、肺炎のためご逝去されました。享年年八十六。

お父樣は軍人で、二つ上のお兄樣は、陸軍最初の特攻隊の隊長としてフィ
リピンで戰死されました。ご自身は滿洲で8月9日、突如侵攻してきた
ソ聯軍をくひ止めるベく對戰車特攻隊の一員として明日出撃といふとき、
終戰。

部隊長から「どんなことがあっても生き拔いて祖國の再建にカを盡くせ」
との訓示を受け、復員後は、富士通を一流企業に育て上げ、日本の復興
に盡くされました。コンピューター開發の礎を築いた富士通「中興の祖」
で、米IBMと互角に渡り合ったことは有名。

元陸軍將校出身經濟人の團體、同臺經濟懇話會の野地ニ見氏によると、
公私混淆を絶對にしない清廉な人柄は社内の尊敬を一心に受けてをられ
ました。

また、國事に奔走され、いくつもの團體を率いてをられましたが、日本
會議では副會長として、歴史觀や國防に關する運動、國際廣報戰略など
幅廣くご指導いただきました。常に背筋のピンと伸びたお姿が思ひ起こ
されてなりません。ご冥福をお祈り申し上げます。

ここに、最後のご講演と拜察される全日本學生文化會議主催の講演内容
を掲載し、先生をお偲び申し上げたいと思ひます。(平成23年10月10日、
明治神宮にて。同機關誌『大學の使命』平成23年12月號より轉載)


(日本會議機關誌『日本の息吹』平成24年3月號に轉載のものを表記を
修正して入力しメルマガに投稿することについては全日本學生文化會議
より許諾を得た。トウ小平のトウは登に邑。)(上西俊雄)